2015年3月11日水曜日

あれから4年

2011年 3月11日14時46分

自宅で独りネットサーフィンしている時に、突然物凄い地鳴りがしたと思った途端

まるで篩いにかけられたように揺れ、気が付いたらチェストの上に置いてあった様々な物が落ち

キッチンの方からお皿が勢いよく流れ落ちる音が聞こえ

室外機が倒れ、窓ガラスが割れ、母の部屋のタンスがドスンと倒れ、物凄い音がした。

サイレンが鳴り、外から かすかに悲鳴も聞こえた。

当時住んでいたマンションの部屋は7階、倒壊することはないにしろ

逃げられなくなったらヤバいと思い、一旦揺れが治まった際に

玄関のドアに傘立てを挟んで、閉まらないように固定した。

そして2度目の揺れ、とっさにリビングのテレビを両手で倒れないように押さえた。

大きな揺れが止み、細かい小さな揺れが時たま起こる中

気持ちを奮い立たせ、リビングの床に散乱したお皿を片付けた。

夜、弟が職場から歩いて家に帰ってきた。母の携帯電話に連絡するが出ず

(後からの話で会社のビルのエレベーターに閉じ込められていたことを知る。)

会社に連絡し、私はしばらく仕事を休んだ。翌日、母と連絡が取れ、無事を確認。

午後6時、1日ぶりに母と再会。涙が止まらなかった。

液状化現象で最寄りの駅付近が沈んで、その日から風景は一変した。

あの日を境に色々なものが変わってしまった現実が怖い。


2 件のコメント:

  1. こんにちは、t0m0さん

    震災から4年が経つのよね。。。
    私も福島の家族と連絡が取れるまで生きた心地がしなくて。。。
    手の震えがとまらなかったことを覚えているわ
    東京駅から横浜の自宅まで歩いて帰ったなんて今思うと信じられない。。。
    あれから。。。原発のことを思うと心配よ
    福島の子供たちの未来が希望に満ち溢れていることを願うばかりよ

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    1. 杏奈さん こんばんは
      あの日のことは、今でも昨日のように忘れられません。
      帰宅難民になった人も大勢いらっしゃいましたよね
      ボランティア活動で実際に現地に行った時には
      目の前の光景にただただ手を合わせて
      亡くなられた人のご冥福を祈ることしか出来ませんでした。
      原発の問題も・・・復興支援ビジネスなんていうものもあり
      悪い人たちの金儲けに利用されたりしているのを知ると
      ほんとにいやになります。。。

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